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一文朗読してみてください→永井荷風 「雪の日」

投稿日 2024年12月8日(日)

昨冬、二子玉川に転宅してすぐ、家の目の前の植込みでキジバトを見かけました。

何のためにそうしているのか、じっとしています。

土鳩は餌やりする人のところに集まりますから、見かけるときはいっぺんに沢山ですが、キジバトが群れているところは見ません。いつも一羽かせいぜい二羽でいます。

今年も、寒気が訪れた頃から姿を現しました。

大概茂みにいて、遠巻きにそっと見てさえいれば、特段警戒心を顕すことなく、佇んでいます。

私はこの、寂しげにも孤高にも思えるキジバトに目を遣ると、反射のように永井荷風の随筆「雪の日」の一妙文が脳内に湧きます。

………雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。。………

雪もよい

「雪催い」と表記します。

意味:今にも雪の降りそうな空模様。雪模様。(大辞泉)

「雪もよい」と誰かが言ったのを耳で聞いたことは一度もありませんし、私自身使ったことのない言葉です。

近年では雪もよいの日そのものが殆ど無いとも言えます。

パソコンのキーボードで変換候補にもあがりません。

生きているうちに一度も口にしない言葉があるのは心残り……

せめて朗読で……

   

頬にぴりっとした冷気が心地好い朝、この随筆を読み返したくなります。

白んだ空間

冬枯れの庭木

霜のした落ち葉

着物姿のご婦人

垣根の向こうの往来…………

…………

瞼のうらに一昔前の風情が映り、耳にうっすら古人の上品な声がしてくるようです。

声に出して読んでみてください。

永井荷風「雪の日」より

(抜粋)

雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。

 父は既に世を去って、母とわたくしと二人ぎり広い家にいた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたった一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、あの鳩が来たからまた雪が降るでしょうと言われた。果して雪がふったか、どうであったか、もう能くは覚えていないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういうわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられている。雪もよいの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきった寂しい心持。その日その日に忘られて行くわけもない物思わしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。

 その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残っていようはずはない。世の中は知らない人たちの解しがたい議論、聞馴れない言葉、聞馴れない物音ばかりになった。しかしそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよって来た時のような、寒い雪もよいの空は、今になっても、毎年冬になれば折々わたくしが寐ている部屋の硝子窓を灰色にくもらせる事がある。

 すると、忽あの鳩はどうしたろう。あの鳩はむかしと同じように、今頃はあの古庭の苔の上を歩いているかも知れない……と月日の隔てを忘れて、その日のことがありありと思返されてくる。鳩が来たから雪がふりましょうと言われた母の声までが、どこからともなく、かすかに聞えてくるような気がしてくる。

 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む……。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。

使用写真

Photo AC