朗読稽古屋ことつぎ

二子玉川駅より徒歩14分
世田谷区野毛にある
ウエムラアキコの朗読教室

お知らせと雑感

  • ブログ
  • 言葉
  • 雑感

朗読教室の卓

投稿日 2025年5月25日(日)

 平成二十六年。久が原の自宅で朗読教室を開きました。あとで思えばそれは、失われた「音」を求めてのことでした。

 亡き父はオーディオ機器をいじくり回すのが趣味で、自分仕様にマイナーチェンジしたコンポで何百枚ものレコードを代わる代わるかけていました。狭い家の中にでんとしている数台のスピーカーから流れていたのは、クラシック、浄瑠璃、落語、講談、浪曲、古い流行歌。日曜日には秋葉原あたりのレコード店を訪れ、おとなしく付いて廻っていれば私にも一、二枚気前良く買ってくれたものです。テレビも自慢のスピーカーを通していたので、四六時中当たり前のように、重低音や心地好いふんわりした音に馴染んでいました。

 父は小さな会社の勤め人でした。昭和四、五十年代当時としても人間が古臭く、同級生のお父さんにはいないタイプの風変わりな男でした。家の中をステテコで過ごし、往来を下駄で闊歩するものですから、友人の前でそれはきまりが悪かったものです。けれども今では、そんな父に育てられたからこそ、私の私たる所以なのだと思い知ることが多々あります。 

 父は小さい私をひと月にいくたびかは寄席やオペラや映画館などに連れ出しました。勿論それらは子どもに向けての作品ではありません。よく理解できないものも随分ありました。観終えたあとは銀座や浅草の老舗にふらっと立ち寄るのが常で、寿司やせいろや天丼やうな重を父は勝手に注文し、自分は私の食べるのを眺めつつお銚子を傾け、嬉しそうにしていました。

 とうとうお子様ランチには無縁でした。

「いいか、金が無くたって米、醤油、茶だけは極上のものを買いなさい。音楽は二流を聴いてはならない。つまらぬ本を読んではならない。子供騙しの芝居や映画を観るな」

 口癖のようにそう言っていた父は、大酒呑みの癇癪持ちである一面、広く芸術に明るく、本の虫で、美しいものを見聞きすると嗚咽とともに涙を流すような人でもありました。暮らし向きは楽ではありませんでしたが、おかずが乏しくともご飯はいつだってほくほくしていたし、本は惜しげもなく買い与えてくれました。

 父はまだ三つ四つの私をつかまえて鼻濁音の使い分けを口やかましく説きました。「○○のー」「〇〇がー」などと語尾を伸ばしてお喋りしようものなら、たちまち顔色が変わり「なんだ、その言いようは。女は口のきき方で値打ちが決まるんだ」と叱るのでした。父が今も生きていてそんなことを言い出せば「お父さん、それは性差別ですよ」と諭したに違いありません。

 その父の母親は小気味よい東京弁の商人言葉を話す人で、孫の私達とも敬語でしか受け答えしませんでした。祖母は活動写真とラジオを愛していました。映画がトーキーに様変わりすると、活弁士たちの多くはラジオ朗読者に転身したそうです。変わりゆく東京の言葉を雑音と捉え不快感を示す父の性分の由来は、祖母の発声や子ども時分にラジオから聴こえてきた話芸の達人たちの真骨頂に触れたことにあるのでしょう。

 私の教室に訪れる殊に七十代以上の人は話し方や発音が麗しく、そこには人の嗜みとしての「極上」さを感じます。話せば内容はいざ知らず懐かしいようなほの甘い気分になります。そうして、その人たちを育てた時代の日本へ、感謝の気持ちが湧いてまいります。

 あるとき老人ホームより依頼を受け、認知症の人々へのよみきかせボランティアをしました。認知症への理解が無い私は、どんな読み物が好まれるのか心配でした。少しばかり緊張しながら自己紹介し持参した絵本を読み始めるも、目の前の人から「何してるの?」と真顔で質問されました。

 かと思えばそのそばから、お手洗いに何度も行きたがる人、なぜ連れて来られたのかという面持ちの人、お昼はとうに過ぎているのに昼食はまだかと怒り出す人もいたりで、集中するのは困難である人が多いことを知りました。

退屈な時間を作ってしまった申し訳なさにかられつつ、私はふと気を取り直し

「朗読してもらおう」

と思い立ちました。そしてホワイトボードに数編の詩を書き、順に音読してもらううち、やがて今度は言い知れぬ感動を覚え始めました。皆、なんと叙情的な読み方をするのでしょう。気負いや衒いがなく、まるで自身の内に棲む幼子へ吟じるかのように、ことばを面白く遊んで聴かせてくれます。

私は、このときの朗読以上に心が揺さぶられたことがまだありません。加えて、音読した後の顔を見て驚きました。席に連れられてきたときには揃って表情が乏しかったのに、音読後は打って変わって口元に笑みがこぼれました。脳科学者らの研究により、音読が脳の神経細胞を活性化するという証明は広く知られています。私は科学的な論拠で説けませんが、音読には認知症の人々の心を晴れやかにする秘密があることを、このとき信ずるに至りました。

皆はその後少しずつ昔の話を始めました。戦時中、大火の下逃げ惑った過去を話す人があり、悲しい事を追想させたかと心配すると、次いで同じ口から、幼いとき母に飴玉を買ってもらって嬉しかった、という別の記憶が語られ、胸が熱くなりました。

誰かの著した文章を声にすると、心の奥にある「話したかったこと」が明確になるのかもしれません。そう言えば私も朗読すると思わず追憶にふけることがよくあります。これは黙読したときよりも顕著です。

 ところで私の教室には大きなテーブルがあります。腰掛ける人の肩から力が抜けて、思いの丈を吐露したくなるようにイメージして誂えた卓です。生徒さんと共に作品の深淵を覗いてお喋りするのは私の最も愛する時間です。

 朗読を始めた経緯を生徒さんに尋ねられることがあります。私はそんな時、ひとつの思い出を話します。小学生の頃、夕暮れに校庭開放の終わりを告げる上級生のアナウンスがありました。私はその仕事に憧れ、六年生になると放送委員になりささやかな夢を果たしました。取るに足らないこんなことが一つのきっかけとなり、聴く人に届きやすい発声を心がけるようになったのだと説明します。すると「私も放送委員に憧れていました」と言う方が、それも一人や二人でなくいるのです。

また、子どものころ授業の音読が好きだったか否かという話題では、丁度半々くらいに分かれるのも興味深いこと。嫌いだったと云う方に、では何故いま朗読を?と問うと「あの頃の苦手意識を克服したいから」と、答えます。

  朗読は奥にしまわれたものを呼び覚ますだけでなく、幼少期への回帰願望を持つ人にとって、戻りたい処へ戻る術(すべ)なのだ、とも感じるのです。

 多くの声を聴いてきた朗読教室の卓の上には、たくさんの小さな思い出や想いが乗っています。