朗読稽古屋ことつぎ

二子玉川駅より徒歩14分
世田谷区野毛にある
ウエムラアキコの朗読教室

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朗読者の問われる資質

投稿日 2024年11月20日(水)

「朗読する性格に向き不向きはありますか?」

このような問いを受けることがあります。

朗読したいという気持ちがあれば、どなたもが朗読者である、

と、言いたいところですが、やはりどうしても向いていないと感じる方があります。

《批判心が強い・長所を見出せない》

一読しただけで、著者・著作に対し批判的な感想を述べる方がいます。

作者、作品を好きになれないとしたら、聴く人に届く朗読はできないでしょう。

そのような場合、雑談を通して何とか美点を見つけてもらえるよう促す努力はします。

しかし、心の中にいつも批判心が渦巻いていると、その場は幾らか理解されたようでも同じことの繰り返しになります。

読み物に好き嫌いがあることを否定する訳ではありません。

私にも全く無いとは言いません。

だからと言って、朗読するとなれば話は違います。

朗読する以上は、いかにその作品と仲良くなれるかを模索しなくては勉強する意味がありません。

ただし私の場合は、一旦声に出したら、もうたちまち好きになってしまいます。

批判文などネガティブな文面は別ですが、声を出すと大抵の場合、書いた方と一つになれる気がするのです。

私が朗読を啓蒙したい発露はそこにあるのかもしれません。

手前どもでは、主に青空文庫を参考に、長く読み継がれている作品を課題にすることが多くあります。

「私、この人(作者)嫌いなんですよね」

「この作者の人格、変じゃありませんか(病的ですよね)」

などと、あっけなくおっしゃるのを聞き、気持ちが塞ぐことがあります。

その作者の著作をどれだけの分量読み、どれだけ調べてそう感じていらっしゃるのかは不詳です。

非凡な人には強い癖が見られることもありましょう。しかし、長い歳月を読み継がれている作者や作品には、有り体に言えば需要がある、ということですし、続いていく力や支持者があるということです。

後人の著作にも影響を与えているに違いありません。

朗読者たるもの、古き文人には敬意を払うべきではないか、と私は思います。

ひいては、朗読する人は何に対しても分け隔てなく尊敬、想像力、探究心を常に忘れず生きてもらいたい、と願います。

亡き人の悪口を聞くこと自体、既に心が痛みますが、まして朗読を志す人が文豪を冒涜する発言をなさることに、私は深く悲しみを覚えます。

洞察することを拒否した「嫌い」が原点の対話には、とうてい花が咲くことはありません。

作品への解釈が深められない以上、朗読者としては不向きと言えるでしょう。

《差別的、侮蔑的な発言をする・心が整理されていない》

さまざまな差別発言、侮蔑的発言が教室内で実際にありました。

国・土地柄

企業・店舗

性差

嗜好  etc.

差別的な発言を聞くと、内心では落ち込んだり、煮え繰り返ったりします。

私はどちらかと言えば直情的にものを言う不出来な人間ですが

それでも抑え、一回、二回、三回……くらいは笑顔で見守ります。

至って静かな反論で和合する努力もします。

でも、許容範囲を超えたときには

「もうここへはお越し頂かなくて結構です!!!」

と、はっきりと申し上げます!(笑)

差別的な発言をなさる方のその差別心はひとつでなく、往々にして多岐にわたっています。

心の中が散らかっていて「認める」「受け入れる」感性を広げていく隙間が無いのでしょうか。

我々は心に未知なるものを取り入れる空間をこしらえる努力が絶えず必要で、それが向上心というものです。

それは朗読するしない以前の問題ではないかと思っています。

慮ることができない

色々な動機や目的があって、朗読教室にお集まりいただいていますが、いくら接しても、なんのために朗読しているのか、私には理解できない方があります。

朗読の基本姿勢は、著者と聴く人の間に立つ 

伝え役・語り部

の存在になることです。

まずは、その基本の位置に立てるということが重要です。

そして更に

鑑賞者に黙読するとき以上の解釈・感動を過不足なく声に乗せていく。

これが朗読者の精進のしどころではないでしょうか。

自身が成長しないと、朗読も成長しませんから、日々の生き方が朗読に反映すると言って過言ではないでしょう。

何を読んでも声に圧力がある人がいます。

「上手いでしょ?」

という慢心が声にも表情からも隠せないでいます。

「負けたくない」「勝ちたい」という誰か(何か)を制した発声になっています。

そういう朗読は著者の側にも聴く側にもなっていません。

そこには朗読者の基本姿勢が無いということです。

ただただ ひたすら間違えないように読む

これも全く頂けません。

自己保身が声に有り有り感じられてしまうのです。

誰の視点にも立てていません。

やはり、基本姿勢がないと言えるでしょう。

沢山の著作に触れ、多くの思考や言葉に触れても、これら複合的な自我と向き合えない方は朗読に不適格であると言わざるを得ません。

では

朗読に向いている人

とは……

どのような方でしょう。

それは

どこにでもいらっしゃる

奉仕、献身の心を持つ

名もなき優しい人です。

朗読教室にただただ通うだけでは、愛ある朗読者にはなれません。